6月・7月のひとこと「ビイック株式会社創設者である私の父が永眠しました」 

 7月4日に、1929年(昭和4年)生まれの95歳、ビイック株式会社創設者の父が永眠しました。新型コロナの2020年まで、父は週3日出社していました。出社をしていない曜日も自宅でいろんなアイデアを考え、週明けにはそのアイデアを書いたノートを会社にFAXをし、説明のために電話を頻繁にかけていました。パソコンを全く使っていませんが、これも立派なテレワークだなぁと感心しました。

 まだ15、16歳であったにも関わらず、御国のため自ら少年飛行兵に志願しました。ゆくゆくは特攻隊になることもあったでしょうが、その前に終戦となりました。その後、国立電気通信大学に入学しましたが、学費を稼ぐために高校で物理の教師をしていたと聞きました。大学には出席できていないため、友人に代返をしてもらったそうですが、流石に体育の授業は代返が通用しません。そのため授業の出席日数が足らず、卒業ができない状況になりましたが、ある教授の知り合いが熱海で旅館を経営していて、そこに住み込み、一日中水泳をすることで単位をもらったと聞きました。

 大学卒業後、松下電器産業株式会社(現在のパナソニック)に入社しました。その後独立し、モーターを製造して古巣であった松下電器産業に卸していたようです。また国際機械振動研究所を立ち上げ、振動機等の開発・製造販売を行ってきました。

 1975年にビイック株式会社を起業しました。地盤調査の種類にボーリング調査がありますが、父はもっと簡単に調査ができる機械を作れないものかと考え始めたそうです。そこで振動を地盤に作用させ、振動の伝わる速度から地盤の強弱を調べる方法を開発しました。そのころの地盤調査機の定価は5000万円と聞いたことがあります。その弊社も今年で50周年を迎えることとなりました。

 ここで、生前の父のエピソードを紹介します。
【仕事人間】
・ベッドにはメモ用紙と鉛筆
父のベッドには、メモ用紙と鉛筆がぶら下がっていました。子供の私はその意味が分からず、何のためのメモ用紙と鉛筆なのかと聞いたところ、「思いついたアイデアを忘れないようにすぐにメモするためだよ」と言っていました。昭和時代にはこのような人が多かったかも知れません。

・日曜日に遊園地へ行く
珍しく父から、「今度の日曜日、遊園地に連れて行ってあげよう!」と言われ、日曜日が来ることを首を長くして待っていた子供の私。待ちに待った日曜日の朝、目が覚めた私は父の姿を家中探しましたが見当たりません。母に、父が何処に行ったのか尋ねたところ、「お父さんはもう会社に行きましたよ」との回答。どうやら父は何気なく遊園地のことを話題にしただけのようでした。落胆した私の心に大きなトラウマとなっていたようで、私は車の免許を取得した後、関東の殆どの遊園地を制覇しました。

・仕事への意欲
父が90歳の頃、定期的に通うクリニックにて、医師から「佐藤さん、何か気になることはありますか?」と質問され、「先生、最近仕事に対する意欲がわかないのです。どうしたらよいでしょうか?」と回答したところ、医師も返答に困ってしまったことがありました。

【健康おたく】
・欠かさないセカンドオピニオン
完璧な人間はいませんので、健康診断結果が出ても、父は鵜呑みにはせず、必ずセカンドオピニオンを聞きに行っていました。場合によっては、サードオピニオンもあったようです。そのためか、その年齢になるまでとても健康で、一度も外科手術をしたことがありませんでした。

・救急車で搬送される
勤務中に父が体調不良になり、救急車をお願いしました。意識ははっきりしていましたので、救急隊員からの質問に答え、通院歴のある病院に搬送されることになり、私も付き添いました。脳波の検査と血液検査を行い、結果を聞きました。脳波の検査結果では特に異常は見られませんでした。続いての血液検査結果も全ての項目で適正値に入っていました。ここで私は自分自身がとても恥ずかしいと思いました。少し前に行っていた私の健康診断結果では、肝臓やコレストロールの数値が適正値を大きく外れていたからです。そこで私は思いました。搬送された父よりも付き添いをしている私の方が体調不良だなぁと。

【愛情表現】
・孫(私から見ると甥)を溺愛
前述に父が仕事人間であることを述べました。また昭和の高度成長期には全ての人が一生懸命働いていたと思います。そのためか、私は父と遊んだことや出かけたことはとても少なかったと思います。しかし、初孫が生まれたころは余裕もあったのでしょう。頻繁に時間を作って遊んだり、何処かへ連れて行ったりすることが多くありました。箱根の温泉にも行きました。そこで未熟な私は思いました。私は父にここまでしてもらったことがなかったので、初孫に対して嫉妬した自分を覚えています。

・大トロの食べ放題
こちらも同様の話です。近所のお寿司屋さんへ父が初孫を連れて行き、大トロをたらふくご馳走したことを聞きました。私の幼少時代、”大トロ” なるものを見たことも聞いたこともありませんでした。せいぜい私の知っているお寿司は、”かっぱ巻” ぐらいでした。

【ネゴシエーター】
・念願のステレオラジカセを購入
私が小学6年生くらいの頃、ステレオラジカセが流行りました。ソニーや東芝など各メーカーからカッコいいラジカセが発売されていました。私のお気に入りは、ソニー製のモノでした。父は、そんな佐藤少年を喜ばそうと考えたのか、ステレオラジカセをプレゼントすると言いだしました。当時家電製品と言えば、勿論秋葉原です。何段にも陳列してあるステレオラジカセ群、私はすぐにお気に入りを見つけることができました。しかし父は別の方を見ながら、店員さんに質問しました。

父 :あのステレオラジカセはどうして値引きしてるの?
(私はこのときすぐに「私が欲しいのは、それではなく、こちらのラジカセです」と言えば良かったのですが、言いそびれてしまいました)
店員:あの商品は前のモデルなので値引きをしているのです
(因みにそのメーカーはビクター製です。今で言うJVCです。その商品は正直、色も好きでは無いですし、形も丸くて好みではありませんでした)
父 :あのメーターのところに傷があるけれど、もう少し値引きできませんか?
店員:そうですね、分かりました もう少しお値引きさせていただきます

私は念願のステレオラジカセを買ってもらって、嬉しさ一杯で帰ることを期待していました。が、ちっとも嬉しくありませんでした。

・初めてのひな人形
ひな祭りが近づいて来ましたので、ひな人形を買いに行きました。以下は店主と父との会話です。

店主:いらっしゃいませ
父 :いろいろありますね。これらはひな祭りが過ぎて売れ残ってしまうとどうなるのですか?
店主:そうですね、安売りをするしかないですよね
父 :そうなりますよね。それでは今日が3月4日でひな人形が売れ残ったと仮定して、今その安売りをしてくれませんか
店主:・・・・・・・いえいえ、それはできないですよね
父 :どのみち、売れ残ったら安売りをするのでしょう⁈
店主:・・・・・・・いえいえ、ひな祭りが終わるどころか、今が一番売れる時期ですから
父 :でも売れ残ったら、安売りするのですよね?
—————— そのようなやり取りが10分ほど続き、——————
店主:わっ分かりましたよ、割引しますよっー(泣)

割引が全くされない時期にも関わらず、父はしっかり割引してもらっていましたが、父の交渉はまだ終わりません。

父 :このお内裏様だけど、隣のひな壇のお内裏様の方が優しい顔をしているので、取り替えてもらえませんか。
店主:そっ、そっ、それだけはできまへん‼

私は意地悪な性格なので、店主側に立つどころか、このネゴシエーター劇場を見ながら、必死に笑いを堪えていました。

【高速道路にて】
・99999キロの新車
高速道路を運転中の父が私に、「このスピードメーターをみてごらん」と言いました。私がそのメーターを見ると、

父 :今の走行距離は99999キロだけど、見ててごらん
私 :・・・・・・・
父 :・・・・・・・
私 :・・・・・・・

99999キロ → 00000キロ

父 :ほらっ、新車になったっー!
私 :・・・・・・・
小学生であった私でも、流石にそのノリにはついていけませんでした。

・高速道路でのトイレ事情
こちらも高速道路での出来事です。
私 :お父さん、おしっこしたい
父 :その辺にある空き缶を探してごらん
私 :・・・・・・・
父 :我慢できないようなら、それにするんだよ

【自宅にて】
・思い出に残るおなら
父によくにぎりっぺをされました

私 :うっへーっ!臭ーっ!
父 :俺が死んだら、もう匂いがかげなくなるから今のうちにかいでおけ
勿論、かげなくなると寂しく感じることの無い想像に容易い匂いでした。

・パーマをかけた茹でタコ
父が帰宅まえに床屋でパーマをかけてもらいました。
しかし、パーマ液が肌に合わなかったようで、顔全体が赤く腫れあがっています。床屋さんにその状況を伝えるために、父は自分の写真撮影をするよう、私に指示をしました。父は既に入浴しており、私はカメラを持ってお風呂場へ急ぎました。そこで私が見た光景は、湯舟に浸かっている真っ赤に腫れあがった茹でタコでした。今はその写真が何処になるのか分かりませんが、このまま一生出て来ないで欲しいと願わずにはいられません。

亡き父のエピソードを紹介しましたが、父が永眠したとき、悲しさとか寂しさというよりも、ただただ父に対する感謝の気持ちで一杯でした。

皆さま、長い間、父が大変お世話になりました。ありがとうございました。

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